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シグナル

※近親相姦なのでご注意を


 学校から帰ってきて一息した時に姉は帰ってきた。リビングには入ってこずそのまま二階に上がった。自分の部屋に直行する。僕は料理している母親を見た。テレビの音と調理の音が混ざり合って姉が帰ったことには気づいてないようだ。
「姉ちゃん帰ってきたね」
 僕は一応母に声をかけた。生返事だが認知はしてもらえたようなので、僕はまたテレビに視線を戻した。
 この時間は僕が読む雑誌のアニメがやっている。僕は部屋にいても何もすることがないので観ていた。しかも今は父がいないので大きなソファーと大きなテレビを占領していた。父がいれば強制的にニュースに変えられる。反論の言葉も言うことができない。母は料理に集中しているし、姉は上に上がったまま降りてこない。
「櫂(かい)、逸美(いつみ)呼んできてくれない。帰ってきたんでしょ」
 俺は丁度最後のシーンに差しかかったので、拒否の態度を示した。
「ほら早く。せっかく出来立てなのに冷めちゃうでしょ」
 母がエプロンで手を拭きながら料理を片手にキッチンから顔を出した。テーブルに料理を置いて、拒否権はないという姿勢を出している。
「父さんは?」
「今日は遅くなるって」
「へえ、そうなんだ」
 呼びに行かない理由を提示できないと僕は悟った。
 僕は名残惜しみながらテレビから視線を外しソファーから腰を降ろした。あえてテレビのチャンネルを変え結末を観ることができなかった悔しさを打ち消した。
 階段を上がるのが憂鬱だ。別に姉のことが嫌いではないが、今はあまり姉に関わりたくなかった。べたべたするほど仲のいい姉弟ではないが、それなりに距離は保っている間柄だった。
 元々僕と姉の部屋は一つだった。寝室と勉強部屋を分けて、僕と姉は多くの時間を二人で過ごした。その頃は漫画でも本でもゲームでも何でも共有し合った。僕は小学五年、姉が中学二年の時に部屋を分けてから僕と姉は枝分かれするよう趣味も興味も離れていくようになった。
 部屋のドアが少し空いている。隙間から姉のベッドが見えた。
 声も物が動く音さえしない。もしかして寝ているのか。僕はそう思い念のため声をかけた。
 姉弟とはいえ高校生の女の子の部屋に断りもなく入るのは躊躇われた。
「姉ちゃん」
 僕はもう一度声をかける。やはり反応がない。意外と叩く音なら目が覚めるかもしれないと僕はドアをノックした。それでも反応がない。
 僕は天井に溜息を吐いて意を決した。
 開けると姉は制服のまま眠りについていた。高校に入って一段と短くなったスカートから白い肌が覗いていた。脱いだブレザーの上着がベッドの上で丸めて置いてある。リボンを外す前にこと切れたと窺える。
 僕が部屋に入ったことに姉はまったく気づいていない。
 友達との会話を思い出した。

 部室での同級生との会話だった。後輩は先に帰って、他の同級生も先に部室を出た。残ったメンバーはクラスは違っていたが仲が良かった。部活から離れてもメンバーは昼休みなどによく遊ぶ仲だった。
 互いのことはかなり話している。それでもよく自分のことを話すのが崎野だった。
「俺ねーこの前木田とキスしたぜ」
 突然の告白はみんなを沸き立たせた。疲れたことなど頭からきれいに吹き飛んでいる。
「まじかよ! 先越された」
「何で木田もお前なんかと。俺のほうがぜってえいい男なのによ」
 僕はみんなが崎野に詰め寄っている中、僕は静かに会話を聞いていた。ふと思い立ったように質問した。
「どうだっだ?」

 押し込めていた感情が膨れ上がるのを感じた。
 目の前には無防備な姉がいる。僕はある一ヶ所を見つめた。吸い込まれるように俺は体を倒した。
 ゆっくりとゆっくりと目標を定めて近づいていく。姉の顔が眼前に近づいたところで目を閉じた。
 僕は姉にキスをした。
 離れてからもその唇の感触が忘れられない。柔らかな感触の余韻が体全体に伝わって、僕は震えた。足を崩しそうになった。もう一度姉の唇に触れたいとさえ思った。食らいつきたい衝動に襲われる。
 姉を見たら起きる様子はなかった。僕は再び姉に唇を寄せた。
「櫂」
 それほど近づいていなかったのが幸いだ。姉は不信がることはなかった。
「ごめんね。私起きなかった?」
「え、ああ」
 僕はあまりに自然なだったので、逆に戸惑った。
「起こしに来てくれたんでしょ。ご飯?」
「うん」
「着替えて降りるから、先に行ってて」
「分かった」
 簡素な会話は終了された。僕はこのままいたら何かをしてしまいそうだったので大人しく部屋を出た。
 ドアを閉めたら、気持ちにもドアを閉めた気分になる。

 それから僕は無防備な姉を見る度にキスを繰り返した。濃厚なキスにはいつまで経ってもできなかったが、僕は姉が目を閉じている時間だけはこの気持ちが許されているような気分になった。
 まるで合図のように姉が目を閉じる。僕はキスをする。

「同窓会?」
 家族四人が揃った夕食の最中に両親が言った。繰り返したのは姉だった。
 僕は黙って聞いていた。
 両親は中学時代の同級生で、二十歳の同窓会で連絡を交換したことが始まりだったらしい。中学の時はろくに話すこともなかったのだが、同窓会で成長し合った姿に互いが惹かれあったそうだ。
 久しぶりに開かれる同窓会に夫婦で出席することは何とも喜ばしいことだが、僕達姉弟にとってはちょっとした問題だ。何しろ同窓会が行われるのは二人の故郷。その故郷は関西地方にある。金曜日の夕方に出かけて、日曜日の夜に帰ってくるらしい。二泊三日の夫婦水入らずというわけだ。
 すべての食事を現金で渡すわけがないので、夕飯は必ず家で取ることになる。つまりは食事を作らないといけないというわけだ。しかも夜には二人の声を聞くために電話をすると言うので、内緒で誰かの家に泊まりに行くこともできない。
 姉はとくに気にしていないようだから、僕が気にしても仕方がない。
 気にすることもなくその日が訪れた。姉は朝食を取らないので、ぎりぎりまで起きてこない。僕は母親から伝言を受け取り、学校へ向かった。
「うーす」
「崎野」
 僕は同じクラスだった。他の仲のいいメンバーは他のクラスだ。
「元気い?」
 朝からテンションが高い。いつもより高いので僕は何となく気になった。
「お前は元気みたいだな。何かあったの?」
「んー気になる?」
 聞いてほしそうな、話したそうな声で言うから、僕は崎野の欲求に従った。
「気になる」
「お前に一番先に話すんだぜ」
 崎野は顔を寄せてきた。僕も顔を寄せた。
「実はな……」
 声を潜めて、妙な間合いを作った。
「木田とディープしたんだ」
 俺は声を上げそうになった。自分がまだ至っていない境地に友人は辿り着いたのだ。僕は気になってしょうがない。
「どうだった?」
 俺は数か月前と同じ質問をした。
「やっべえよ。まじ気持ちいい。あー思い出したらしたくなってきた」
「ふーん」
 僕は素っ気ない言葉を返した。
「ふーんてお前興味あんのないの、どっちなん? 聞いてくる割には適当な返事しかしねえし」
 崎野は高揚から一気に真顔になる。
「そりゃあ俺だって男だよ。興味ある」
「教えてほしいか?」
 僕は崎野の冗談を無言で沈めた。
 興味があるのは本当だ。本当のキスの味を崎野は知っている。僕がするような偽物のキスとは違う。お互いが気持ちを認め合ったキスだ。僕の決して辿り着けない、辿り着いてはいけない場所だ。
 僕は部活が終わって部室でだべることなく学校をあとにした。歩いていると姉からメールが入った。夕飯のリクエストだ。明日は自分が作るから今日は僕に作れという事後承諾をさせられた。これで作ってなかったらたとえ理不尽でも怒られるのだろう。僕はメールの内容を熟読し、スーパーへ向かった。 家に帰ったらもう両親がでかけて随分経ったあとたった。部屋が冷たい。
 僕は姉にメールして何時頃に帰ってくるか尋ねた。丁度帰宅してくる頃を見計らって料理を作るつもりだ。
 こういうことには慣れていた。両親は僕が生まれて今まで仲がいい。多分これからも。喧嘩をすることがあってもとても些細なことで次の日には仲直りしている。二人きりになればすぐにいちゃいちゃするので迂闊に近寄れない。そういうわけで両親が揃って出かけるのは珍しくない。その上お金を置いてこれで夕食を食べてねということはしなかったので、僕も姉も自然に料理をすることが身についた。
 僕はパスタ料理を作るのが好きだ。姉も僕が作るのは母親より美味しいとと言ってくれる。従来からあるものや創作でも作ったりする。小さい頃色んな具を入れて試したかいがあってバリエーションは豊富だ。
 姉は僕にカルボナーラを頼んだ。それも手作りの。生クリームを買ってマッシュールも買って、すべて一から作らなければならない。面倒だ。姉が帰るにはまだ時間があるが、僕は具だけでも切っておくことにした。
 部屋着に着替えて、僕はほんの少しソファーでくつろいだ。特に観たいテレビはないが電源を入れた。
 母のエプロンを借りて調理を始めたのは三十分後だった。何回か作ったことがあるが久しぶりなので本を見ながら作った。作ってるうちに手順は思い出してきたので、次第に本から目を離すことが多くなった。
 夢中になると時間も音も気にならなくなる。僕が雨の音に気づいたのは盛りつけをし始めてからだった。音は小ぶりの大きさではなかった。結構な度合いで降っている。姉は大丈夫だろうか。まあ今はコンビニでは五百円以内で売っているから濡れるぐらいなら姉は買ってくるだろうと勝手に思った。
 盛りつけが完了し、僕はテーブルに料理を運んだ。丁度よく姉が帰ってきた。玄関に迎えに行くことはしない。リビングのドアが開くのを待ったが、玄関から姉の声が聞こえた。
「櫂、タオル持ってきてくれない」
 僕は玄関まで行って姉を見た。髪が肌にはりついている。とりあえず脱いだであろう上着が置いて持っていて、濡れたカッターシャツの向こうに肌の色とピンク色が見えた。
「今持ってくる」
 僕は風呂場に行ってタンスからバスタオルを二枚取り出した。足早で玄関に戻って一枚を姉に渡し、もう一枚は床に敷いた。姉は上着を僕に渡し、タオルの上で靴下を脱いでそれも僕に渡した。僕はその二つをすぐに風呂場に持っていき、上着は乾燥機に靴下は洗濯機に入れた。スイッチを押すと乾燥機が回る音が響いた。
 僕は玄関に行かずリビングで足を止めた。
 しばらくして姉が髪を拭きながらリビングにやってきた。
「あー美味しそう。さすが櫂。着替えてくるね」
「ちょっと待ってよ。風呂入んない気? 風邪引くよ」
「せっかくあんたが作ってくれたのに、冷めちゃったら勿体ない」
「そんな大したもんじゃないから、風呂入ってこいよ。明日風邪引かれたら俺が看病しなきゃなんないだろ。ほら」
 背中を押すと姉は観念したのか、二階から着替えを持ってきて風呂場に向かった。
 シャワーの音が聞こえる。僕は振り払うようにテレビの音量を上げた。

「先に食べてれば良かったのに」
 風呂から上がってきた姉は言った。体を温めるどころか髪もついでに洗ったようだ。姉専用のシャンプーの香りがする。
「いや、テレビ観てたから」
 僕は言って、冷蔵庫のほうへ向かった。扉を開けてお酒を取り出す。
「あんたそれ……」
「スーパーの店員は結構緩いんだ。簡単に買えた」
「私にもちょーだい。じゃないと父さんにばらすからね」
 姉は自分のグラスをテーブルに持ってきて言った。僕は自分のグラスを取り出して、姉の前に座った。
 プルタブを引き起こして、姉のグラスに注いだ。白い液体が姉のグラスに溜まっていく。イチゴ柄の向こうにか白い液体が揺れている。
 続いて僕は自分のグラスに注いだ。僕のはシンプルに透明一色だ。
「うまーい。明日のリクエストは?」
 姉は唐突に尋ねた。
「まだ夕飯中なのに、明日のご飯って。気が早すぎだろ」
 僕は半ば呆れて言った。
「今日はあんたが作ってくれたでしょ。早いほうが色々やりやすいじゃない。何でも作るよ。あんな両親だから料理には慣れちゃったしね」
「そうだね。ほんと勘弁してほしいよ」
 俺は会話の途中で食事を終えた。姉はまだ半分残っている。
「食べるの早いし」
「姉ちゃんが遅すぎんだよ」
「風呂入ってきたら、ついでにお湯入れたし」
 だから長かったのかと僕は悟った。風呂はあとで入れるつもりだったのに姉は気を利かせてやってくれた。単に浸かりたかっただけなのかもしれないけど、仕事が減ったことには変わりないので心の中で感謝を述べる。

 思ったよりも長く入りすぎてしまった。風呂は好きだ。記憶に存在する中で寝てしまいそうになった経験が何度かある。もっと小さい頃は実際に寝てしまったこともあったらしい。あの時はびっくりしたと母が愚痴をこぼしたこともある。
 髪はいつも自然乾燥だ。前髪は多少伸びてきたが、全体的にそれほど長くない。姉なんか髪を乾かすのに数十分かかるほどだ。
 リビングに行くと姉はテレビを消してソファーで寝ていた。僕は息を飲んで合図に従った。
 淵に手をかけ、姉にキスをした。もう一度キスをする。欲望がどんどん溢れてくるのを感じながら、三度目のキスをした。
 さすがにやりすぎたと反省する。見ていたらもう一度キスをしてしまいそうなので、僕は反対方向を向いた。
「覚悟はしてるの?」
 僕は突然降りかかった姉の声に素早く反応した。たった今起きたような声じゃない。発音もはっきりしている。目に睡眠の余韻は感じられない。
 姉は起きていた。僕は驚愕して声が出なかった。
「何してるか分かってるの?」
 僕は一つの結論に至った。
「俺が姉ちゃんに何してるか分かってたのかよ」
 姉は黙っている。
「覚悟って何? 父さんや母さんを悲しませることか。姉弟の一線を越えることか。もうとっくに越えてるよ!」
「まだ戻れる」
「じゃあ何で目を閉じたんだ! ドアを開けてたんだ! 覚悟なんて知るかよ! 俺は、俺は……」
 うまく言葉が紡げない。
「しょうがないじゃない。あんたがキスなんてしてこなきゃ、私だってこんな気持ちに気づかなかった!」
 覚悟なんて知らない。
 姉弟なんて知らない。
 あるのはこの気持ち一つだけだ。
「姉ちゃん、目を閉じて」
 僕は言った。それがどういう意味かきっと伝わると信じていた。
 僕と姉の視線はほぼ同じだ。成長期だとはいえ、まだ胸を張って追い越せていない。それでも少し僕のほうが高い。
 姉が目を閉じた。僕はゆっくりとソファーに体を倒しながらキスをした。最初は浅く、徐々に深く入り込んでいく。
 独りよがりのキスが初めて二人のキスになった。
 僕は姉の衣服に手をかけた。僕はぎこちない手つきで脱がしていく。姉の動きがそれを手伝った。僕も姉の手によって服を脱がされた。
多分姉は経験があるのだろう。僕の愛撫する手を導いてくれているように感じた。僕は導かれるままに姉の体に愛撫を施した。姉も僕の性器を愛撫してくれる。挿入する前に一度達してしまった。
 二人の息遣いが紅潮し始めた頃、僕と姉は一つになった。初めての挿入に僕は少しだけ戸惑った。でも姉の顔を見ると苦しそうに笑っていた。
 もう止まることなんてできないと思った。
 僕が腰を動かす度に姉の体が揺れた。少し苦しそうな呻き声から、快感からもたらされる甘い声に変わる。僕はそれが嬉しくて嬉しくて、動きを速めた。僕のほうも快感に酔った。姉の嬌声と共に聞こえてくるのは、自分の艶めかしい喘ぎ声だった。徐々に荒くなっていく息に混じっている。僕はさらに行為に没頭した。
 時々姉の顔を見てキスをして、深くキスをして、胸に顔を埋めたり、乳房や上半身に舌を這わせた。姉の頬が上気していく。僕にも最高潮の時が訪れようとしていた。
「愛してる」
 僕は自然と口にしていた。
 その瞬間心も体も最高潮に達した。次に脱力感に襲われた僕は姉の体に倒れこんだ。姉から腕を回してきたので、僕は気づいたら涙をこぼしていた。
「私も愛してる」
 僕は一瞬信じられないような気持ちになった。幻聴かと思ったほどだ。でも、姉の顔を見ると優しく笑っていた。
 僕は言葉を繰り返した。姉が目を閉じた。

 許されたこの気持ちがどこへ続いて行くのか分からない。この気持ちの先にあるものは決して幸福ではないことは知っている。姉も知っている。
 それでも僕達は互いの気持ちを許し合った。
 姉の部屋を見るとドアが開いている。僕はゆっくりと部屋に足を踏み入れ、音を立てないようにドアを閉めた。
 姉はベッドにいた。仰向けになっている。寝息は聞こえない。
 僕は横に腰をかけ、長い髪を掬った。柔らかい髪は僕の手から簡単に落ちていった。僕は小さく笑みをこぼした。
「勝手に触らないでよ」
 僕は姉が起きているのを知っていたからさほど驚かない。
「いいじゃん。女の人の髪ってなかなか触れないし。柔らかそうっと思って」
「まーいいけどね。ところで何の用?」
 姉は意地悪っぽく尋ねた。クッションを抱いて体を起こしている。僕の返答をそわそわと待っている。
「分かってるくせに」
 僕は姉のクッションを奪い、体をベッドに倒した。姉を上から見下ろし、滑らかに髪を撫でた。
 数秒見つめ合った。
 姉が目を閉じる。僕はキスをする。
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VS

 昼休み、第一校舎二階に一人の少年が連行された。
「てっめえしつけえんだよ! 俺以外にも違反してる奴はいるだろうが」
 叫ぶ少年の名は折原(おりはら)。校内一の問題児で、学内はおろか学外にもその名が知れ渡っているほどの不良である。
「大体この体勢はなんだよ!」
 唾が飛ぶような勢いで折原は言う。
 折原が言う体勢は、ソファの上にうつ伏せにされ、手は後ろで手錠をかけられている。さらにはその上に勝ち誇ったような笑みを浮かべている少年が押さえつけるように乗っている。
「いい加減素直になったらどうだ?」
「風紀委員長がここまでやってもいいんですかねえ」
 吐き捨てるように折原は言った。
 風紀委員長と呼ばれた少年の名は田中(たなか)。元男子校で、男子の割合が7割の我が高校の風紀を立て直そうと尽力している人間の一人だ。ただその厳しさには誰もが一線を引いている。
「心配するな。たとえことが大きくなっても揉み消す権力ぐらいは持っている」
「ふざけんなてめえ! つかいい加減に降りてくんねえ」
 叫び疲れた折原は田中に視線を向けた。
「離したところでお前が服装を正すとは思えないが」
「あったり前だろばーか」
 反射的に言ってすぐにしまったという顔になった折原。
 田中は悪魔のような笑みで笑い言った。
「いい度胸してるじゃないか」

 折原専用となった椅子に折原は括りつけられ、なす術もないまま服装や髪形を治されていた。
 息がかかるほど顔を近づけられ、ボタンを全部止められ、ネクタイを締められる。楽しそうに笑いながら田中は手を動かした。
「この変態が!」
「俺はいたってノーマルだ」
「じゃあんなに顔近づけなくてもいいだろうがよ!」
 叫ぶために前を向けばすぐ目の前には田中の顔がある。
「いや、お前の反応が楽しくな」
 今すぐにでも殴りかかってやりたいところだが、この状態では何もすることができない。こめかみを震わせながら折原はことが終わるのを待った。
「折原、お前は絶対Mだな」
 突如の発言に折原は罵声を浴びせることもできなかった。田中の発言に思考がついていかない。なぜこの男は突然そんなことを言ってきたのか、なぜMと断言されなければならないのか。
「マジお前死んでこいよ」
「ほう、先輩に対する口のきき方も指導しないといけないのか」
 田中は上唇を舐めながら怪しく微笑んだ。
 折原はその声音と表情と行動に畏怖を感じたのか全身を震わせた。
「やっぱてめえ変態だろ!」
「教育的指導の時間だ」
 そう言いながら、さらに顔を近づけた。
「すいませんでした、田中先輩」
 身の危険を感じた折原はすぐに屈服した。
「もう気が済んだでしょう。離してくれませんかね」
 ふてぶてしい態度だが、折原は敬語を使う。
「まあもうすぐ昼休みも終わるからな。今日はこのぐらいにしておこう」
 溜息をつきながら、田中は顔を離した。

 体を解放され、折原は大きく背伸びをした。
「乱すなよ」
 釘を刺すように田中は睨みを利かせた。
「誰が聞くかっての」
 折原は小さく発した。勿論一歩出ればすべてを元通りに戻すに決まっている。こんなシャツをきっちり入れて、ズボンは上げて、ボタンは完全に止められ、ネクタイはきっちり締められ、髪はスプレーで押さえつけられ七三分けの正に生徒手帳に載るお手本のような服装で表を歩くのは御免だ。
 チャイムが鳴った。
 何も言わずに出て行こうとすると、「失礼しました、だろう」と田中が背中に向かって言った。
「し、失礼しました」
 蛇のようにしつこい奴だと思いながらも従う。ここから出れば、あいつの手の届かないところへ行ける。
 ドアを閉めて、一歩二歩。折原は勢いよくすべてを元に戻した。
「まったく懲りないな、お前」
「あんたもな」
 背後から聞こえた田中の言葉を返す。
 さあいつもの通り、ここからが本番だ。
 位置について、よーいどん。

今宵、サンタの降り立つ街の

 十二月二十四日、今宵はクリスマス・イヴ。
 街は大賑わい、そしてここサンタクロース島に住む候補生達も初めての実習に胸を高鳴らせている。実習の内容は「一人の子供に幸福を与えること」。簡単でも難しくもない内容だが、初めての実習ともあって多少の緊張はあった。
 それを吹き飛ばすような、元気な生徒が一人。日本人のサンタ候補生のケイト。
「ついにこの日がやってきたな、ジャック」
 道具の最終チェックと使い方の確認をしている生徒達がいるという中で、一人トナカイのジャックと陽気に話をしている。羨望と呆れた視線、苛立ちも含んだ生徒の目がちらちらとケイトへ向かっている。あえて見ないようにして、集中している生徒もいる。
「ケイト、静かにしてくれないか。みんな集中しているんだ」
 耐えかねた生徒の一人が注意をしにきた。
「これはこれは優等生のアルフォンソ君じゃないですか。不快を与えてしまったようで申し訳ありません。以後気をつけましょう」
 胸に手を当て、かしこまった態度でアルに対応する。これはアルを挑発するために作られたものである。
「気持ち悪い。その言い方やめろ」
 凄まじい不快感を表情と声に醸し出してアルは言う。
「いえ、優等生のあなたに対する敬意を払っての口調ですよ。お気に召しませんか?」
 粘り強いケイトはまだ続ける。
 アルは挑発に乗らないように平常心を保つが、いつも粘り続けて勝つのはケイトだった。
「ああ、お気に召さない」
「左様ですか。では、あなたが慣れるように努力をいたしましょう」
「そんな努力は無用だ」
 少し声が激しくなってアルはすぐに元に戻す。
「僕が言いたいのは、静かにしてくれってことだけだ」
 冷静な口調でそう言って、アルはマントを翻した。
「おや、優秀なアルフォンソ君には予習は必要ないのでは?」
「僕に話しかけるな」
 ぴたっと立ち止まり、背を向けたままで言った。
 ケイトはアルに歩み寄って、話し続ける。
「あなたならもう準備も暗記も完璧なのではないのですか? ああ、他の生徒の見本になるようにとかですかね。優等生続けるのも大変ですね。心中お察しします」
「うるさい」
 アルはどうにか声を荒げないようにケイトの言葉をかわそうとする。
 ケイトはもう一息だと確信して一気に言葉を発した。
「最近は学年二番の方が迫ってきているという噂もありますしね。愛しの君もその方に取られそうになっているとか。それは必死になのも裏づけれます。まあ、私には関係ないことですが」
 アルの肩が僅かに動いたのを確認した。横顔だからよく分からないが、怒りに震えているだろう。
「それでは長い間引き止めてしまって申し訳ありませんでした。早く戻って生徒達の見本になられるように励んでください。きっと彼女もあなたに釘づけになられることでしょう。私は静かにあなたの姿を拝見しておりますので」
 後ろに振り向きながら手を降って去ろうとしたが、アルにフードを引っ張られ、雪に尻餅をついた。
「君は毎度、余計なことを言う! いい加減にしたらどうだ。僕と関わらなくてもいいだろう」
 まんまと嵌められて、大声で怒りをケイトにぶつける。
 ケイトはこれを見るのが楽しくて仕方ないので、口元がついつい笑ってしまう。そのたびにアルの怒声は強くなる一方だ。
「君は僕の何なんだ? ここまで言われる筋合いはない!」
 アルは気づいているのだろうか。今生徒達はおろか教員達の視線まで奪っているということを。
「そうだねえ、友達かな?」
「勝手に決めるな!」
 一際アルの声が大きくなった。
「でも、俺達いないだろ友達?」
 ケイトの的確な指摘に動きが止まる。痛いところを突っ込まれた、そんな顔をしているのがありありに分かる。
 二人は互いに学校一の孤高の優等生と問題児で変わり者だったからだ。ケイトのほうは誰とでも話す、というよりは話しかけるが、アルのほうは話しかけられても一言二言しか話さない。しかも表情は一切変えずに、だ。そんな二人に友達はいるわけがないだろう。
「だ、黙れ!」
「静かにしなさい!」
 教員のはきはきとした大きな声で、アルの言葉はかき消された。
 アルは我に返って、声の方向に向く。他の生徒達も突然の大声に即座に反応している。ケイトは驚いた様子はなく、通常の顔をしている。
「そろそろ出発します。準備はいいですか? では番号順に並んでください」
 全生徒の目が向いているのを確認すると、穏やかな口調になって、教員は続けた。
 生徒達はそれに従って一列にソリを移動させている。アルは小声で何か言って、ケイトの服を掴んでいた手を放した。
 ケイトは乱れた服を直して列に加わった。
「また、思う存分苛めたな。悪趣味だぜ」
「いい悪趣味だろ?」
「そんなんじゃいつか嫌われるぞ」
「ま、その時はその時だ」
 ケイトは軽い調子で言った。
 次々に生徒達は下界へ降りていく。ケイトの順番も近づいてきた。アルはとっくに出ている。
「さあて、行きますか。自慢の鼻で頼んだぜ、相棒」
 眼鏡をかけ、ケイトは意気込んだ。ジャックは小さく鳴いて、了解の合図を取った。
 手綱を振って、ジャックは空へと駆け出す。空を飛ぶ実習は何度かやっているので怖くはない。それよりも高鳴る胸のほうが溢れ出す。
 もうすぐ幸福を持って、サンタが街へ降り立つ。

 ここは日本のどこか。
 日本人のケイトは、必然的に日本での実習になる。もしサンタに任命されたら、日本での仕事になるだろう。候補生達は自分の国で実習することになっている。
「どうだ? 見つかった?」
 空を駆けるトナカイに向かって言った。
「北東十五km。瞬間移動のほうが早い」
 ジャックは嗅ぎ分けに優れている。ケイトに的確な指示を出した。
「いいや。時間はまだある。のんびり空の旅を楽しもうじゃないか」
「相変わらずのんきな奴。時間いっぱい楽しもうとするなんて、アホのすることだ」
「まあ付き合ってくれよ、相棒さん」
 ジャックは後ろを振り向けないが、ケイトは笑っていることが分かっていた。そんな男なのだ。
 夜の十二時過ぎだというのに街の光は衰えていなかった。ネオンや街灯が煌々と光っている。近くで見たらその美しさは薄れてしまうが、空から見る光は美しい情景を見せてくれる。
「ここは随分都会だな」
 街の様子を見ながら、ケイトは呟いた。
 ケイトの生まれ育った場所は、普通の町だ。都会でもないし、過疎化が進んでいる農村でもない。けれど、町の光はこんなに灯ってはいない。
 上空から見る初めての景色に好奇心を寄せられていた。
「でも、何か足りない」
 眼鏡を外して空を見上げる。
 足りないものは雪だ。空から白い粒が舞い降りてきていない。
「これじゃあクリスマスって感じがしねえな」
 片手を手綱から放して、黒いケースを開けた。中にはサンタの道具がいくつか入っていた。ケイトはその中のベルを手に取った。
「もう使うのか? 無駄使いは駄目なんじゃ―」
「野暮なこと言うなよ。お前だって見たいだろ」
 ジャックの台詞を途中で切って、覆ることのない意思の籠もった言葉を言った。
「はいはい」
 ジャックは呆れて容認した。
 見とけ、と言って、ケイトはベルを鳴らした。混ざりけのない純粋な鐘の音が空に響き渡る。するとどこからともなく雪が舞い降りてきた。
「そろそろだ。降りるぜ」
 ジャックは自慢の鼻で指し示して、ゆっくりと降下していく。

  *

 今宵はクリスマス・イヴ。
 おばあちゃんが帰ってニ時間経った。母親を亡くし、父親が単身赴任をしているので、朝から夜にかけて家事などをしてくれる。けど、食事が終わると帰ってしまう。クリスマス・イヴでも例外じゃない。
 少し豪勢な食事だったが、二人で囲む食卓は少し寂しかった。簡単に分別つけることのできる年頃じゃない。父親に向かって、寂しい、などと言えるような子供でもなかった。
「あ、雪」
 眠れなかったぼくは、ベッドに寝転がって本を読んでいた。
 カーテンを開けると雪がちらつき始め、もういい子はお休み状態。街の明かりは少なかった。
 子供部屋の情景が目に浮かぶ。枕元にはサンタさんへの手紙と、大ききな靴下が置かれていることだろう。ぼくの枕元には何もない。部屋にはおばあちゃんが買ってくれた本が一冊。所在なさげに佇んでいる。
 ぼくは窓を開け、縁に腰をかけた。
 月をバックに何かが見える。それがぼくに近づいてきた。
 トナカイ? ソリ? サンタ? ぼくは目を見開いて、思わず叫び声を出しそうになった。
 彼らはぼくの目の前で止まると、顔を近づけてじっくりと見てきた。
「おい、ケイト。こいつ見えてるぜ」
 喋るトナカイ。珍獣発見だ。
「え、マジ? 初実習で会えるとは、俺もついてるねえ。日頃の行いがいいからかな」
 ぼくを無視して会話をする、一人と一頭。
 これが、サンタ? ぼくは思った。いやいや、何かのトリックかもしれないし、それにこんな若くて軽薄そうなサンタ見たことがない。髪は染めてるし、ピアスもつけている。加えてサンタの格好が、普通で見るようなものと全然違う。
「ねえ、君。俺らのこと見えるんでしょ?」
 トナカイにケイトと呼ばれたサンタがぼくに話しかける。
 いまいち状況をうまく掴めないぼくは、こくこくと頷いた。夢でも見てるのか? ぼくは眼前に映し出される存在に疑心暗鬼だ。
「『これが、サンタ?』って思ったでしょ? 残念ながら、そうなんだよね」
 笑みを絶やさずに、ケイトはそう言う。
 ぼくは息を飲んだ。状況を受け入れよう。落ち着け、太一。
「お兄さんはほんとにサンタ?」
「格好見て分かんないかな」
 その格好で、分かれというほうが、無理難題だ。だけど、ケイトは平然と言う。
「ふーん。サンタってほんとにいるんだ」
 ぼくはまだ信じ切れてはいないけど、納得した素振りを見せた。
「まあ、君が信じていまいがいようが、どうでもいいんだけど、ジャックの鼻に引っかかっちゃったからね。何かほしいものはない?」
 そうケイトが言うと、ジャックという名のトナカイはふんと、迷惑そうに鼻を鳴らした。
「さあさあ」
 ケイトはどこからか紙とペンを取り出し、書く準備をしている。
「ぼくにほしいものは、ないよ」
「ほんとに?」
 ケイトはまだ疑ってる様子だ。ぼくは「ほんとだよ」と答えた。その答えを聞いて、ケイトは少し困ったような表情を見せた。
「何でもいいから、言ってみてよ」
「おい。それじゃあ課題にならねえだろ」
 苛立っている顔のケイトから、横やりが入れられた。
 さっきは初実習? 今は課題? 何のこと? まるで学校の授業の時に言われるような単語ばかりだ。ぼくの頭でそれらが巡る。
「でも、今から探すの面倒じゃないか? まったくお前はこういう時だけ常識人なんだから」
 ケイトは白けた声でトナカイに文句を言う。
「ねえ、君。ほんとに何もない?」
 ケイトは顔を凄んでみで、ぼくに問いかけた。きっと最終手段なんだろう。多少強引なところがある。
「ぼくなんかより、プレゼントをほしい人はたくさんいるさ。お父さんからはちゃんとプレゼントもらったし、だからぼくは幸せなんだ。そんなぼくにあげるのは、勿体ないよ」
 ぼくは精一杯強がって、笑顔を作った。
「そ、じゃあバイバイ」
 ケイトは以外にもあっさり引いた。トナカイは登場した時から、怒ってるような顔は崩さず、素早く進路変更して、去っていった。

  *

「どうすんだよ。もう時間ねえぜ」
 ジャックは鼻で、新たな匂いを嗅いでいた。
「それより、どう思う?」
「何がだ」
「あの子のことだよ。だってあの時間ならまだ大人は起きてるだろ。なのに、あの子の部屋以外どこも電気がついていなかった。仕事にしては、もう帰っててもいいはずだ。これは何かあるな」
「ケイト、何を考えてる?」
 にやりと笑うケイトの怪しげな笑みに何か感じ取ったのか、ジャックは聞いた。
「お前なら分かってくれてるんじゃないか?」
「冗談よせよ。あのガキはいいって言ったんだ。面倒事に首突っ込むな」
「それは、お前が俺の相棒になった時点で、諦めておくべきことだよ」
 ケイトは楽しげに笑う。
 ジャックの顔が怒りを僅かに残しながら、落胆を示していた。

  *

 時刻はもう十二時を回っていた。
 ぼくはケイト達を見送って、布団に潜っていた。
 なぜだか分からないが、寂しさが込み上げてくる。あんな強がった台詞を言ったからだろうか。
 父さんからプレゼント貰ったなど嘘をついて、幸せだなんてほんとは思ってなんかいない。寂しさが募る一方だ。
 涙が一筋こぼれた。
「クリスマスなんて、なくていいのに」
 ぼくはそう呟いた。
 突然、風が舞い込んでくる。カーテンが大きく揺れ、先ほど見た姿がまた現れた。
「そんなの嫌だね」
 ケイトがソリの上に立って笑っている。
「泣いてた?」
 ケイトはぼくの頬に視線を落とし、優しい声で言った。
 ぼくは涙を拭って「泣いてない」と、胸を張った。
「何しに来たの? 忘れ物?」
「ああ、忘れ物を取りにきた」
 ケイトが頷くと、チャイム音が鳴り響いた。
 こんな時間に誰だろう? ぼくはケイトをおいて、急いで玄関に行った。
 相手の姿も確認せずにドアを開けると、父さんが立っていた。ぼくは声も出ず、体も動かず、呆然とその姿を見上げる。何も持たずに、髪もぼさぼさ、目には隈ができている。
「と、父さん?」
 夢でも見ているのかと、ぼくは声を震わせた。
「太一。お前起きていて大丈夫なのか?」
 質問の意味が分からない。
「熱出して、俺をうわごとで呼んでるって母さんから連絡があったんだが」
 父さんはぼくを上から下まで見る。そんな様子ではないのは、人目で分かる。
「おばあちゃんなら、今日も普通に帰ったよ。それにぼく熱なんか出てないし」
「そうか」
 父さんは目を細めて、安心したような微笑みを浮かべた。
 声が聞こえた、気がした。ぼくの背中を押すような。
「父さん、今日は何の日か覚えてる?」
 ぼくは父さんのコートの裾を握りしめた。
「クリスマスだよ」
 ぼくが言うと、父さんは辺りをきょろきょろ見回した。
「あ、プレゼントか? 悪い、急いでたから持ってきてないんだ。今度買ってくるから」
 父さんは戸惑いながら言った。
「違う!」
 ぼくは深夜だということを忘れて、大声を出した。
「奨?」
「寂しかったんだ、ずっと。誰にも言えなかったけどずっとずっと寂しかったんだ。プレゼントなんかいらない。ぼくは父さんにいてほしいんだ」
 ぼくは俯きながら、長年抱えてきた思いを告げた。 父さんがぼくに手を触れた。「ご、ごめん。こんなこと言っちゃって、ぼく馬鹿みたいだ」 ぼくが溢れた涙を止めようとしたところを父さんは止め、「馬鹿なのは父さんのほうだ」と言い、膝をついて僕を抱きしめた。
「ごめんな、気づかなくて。ずっと寂しかったんだな」
 父さんの顔は見えなかったけど、きっと泣いている。次第にぼくを抱きしめる力が強くなった。
「父さん、痛い」
「ごめんな。ごめんな」
 何度も何度も言う。
「謝るぐらいなら、側にいてよ」
 ためらうことはもうなかった。今日ぐらいは子供になろう。
「ああ、側にいる」

 二人で泣きながら眠りについた。
 ぼくは窓がノックされる音で目を覚ました。父さんは起きていない。
 窓のほうを見るとケイトがいた。ぼくは立ち上がり、窓を開けた。
「忘れ物はどうしたの?」
「ちゃんと持ってるさ」
 ケイトが満足そうに笑った。
「ねえ、ぼくもあなたみたいになれるかな?」
 去っていこうとするケイトに向かって、ぼくは訊ねた。
「なれるさ。君には素質があるからね。時が来れば」
「そっか」
 ぼくは軽く微笑みながら言った。
 トナカイのジャックが早く帰ろうと促している。ケイトはそれを宥めながら、ぼくのほうに振り返った。
「最後に一つ。今の気分は?」
 マイクをつきつけるように、返答を求めた。
「ちょー幸せ!」
「Merry Christmas.」
 丁寧な発音でそう言うと、急加速して去っていった。
 街には雪が降っている。けれど、心は温かい。ぼくの隣で眠る父さんは、もしかするとサンタの贈り物かもしれない。それは靴下に入りきらない、特大の。

  *

 島に戻ったケイトは、教官ら「減点、補習、罰則」を言い渡された。
「馬鹿だな、君も。時間オーバーに。洋紙の未使用」
 寮に戻ったケイトに罵声を浴びせるのは、優等生のアルフォンソだ。
「でも、気分はいい」
 まったく堪えていないケイトは、平然とそう言った。
「ていうか、お前は俺をそんなことを言うために待っててくれてたの?」
 それもそうだ。もうとっくに就寝時間は過ぎている。寝室へと繋がる談話室で暖炉を炊いて、起きている人物なんて普通いない。
「そんなわけないだろう。眠れなくて、本を読んでいただけだ」
 アルはきっぱりと否定をする。確かに本は机の上に置いてある。
「つれないね。素直に待ってたっていえばいいのに。俺のことが心配だったんだろ?」
「そんなわけあるか!」
 大きな声を出したアルの口を、指一本で防ぐ。
「しー。もう深夜だぜ」
 ケイトが小声で言うと、落ち着いたアルはその指を払う。
「もう僕は寝る」
「まあ、待てよ。今日はクリスマスだぜ」
 そう言って、ケイトは箱を上に持ち上げた。
「何だそれは?」
「クリスマスケーキ」
「一人で食べていろ」
 即言い放ったアルは、後ろを振り向く。
「そんなこと言うなよ。お前の分もあるんだぜ。せっかくうまいとこで買ってきたのに、早くしないと溶けちゃう」
 同情を乞うような声で、アルを誘う。
「な、食べよう」
 ソファに座り、ケーキを広げ、紅茶を入れた。準備は万端で、アルを無理矢理でも席に着かせようという魂胆だ。
「仕方ないな。今日だけだぞ」
 これぞクリスマスの効力。聞き分けの悪い子供でも、納得をさせてしまうことができるのだ。
 アルがサンタの乗ったアイスケーキにフォークを刺しているのを見ながら、ケイトはしてやったりという表情をこっそりした。
 街はまだ夜に浸かっている。子供達は深い眠りについている。枕元に置かれたプレゼントを見るのは、まだもう少し先。

宝物箱

 ぼくらは新しいものに触れるたび、姿や形を変えてゆく。
 好きだったものが好きではなくなったり、必要だったものが必要性をなくしたり。そして、過去を振り返る。大切だった理由が思い出せなくなる。

 これはぼくがぼくであった頃のお話。

「惟吹(いぶき)、何やってんの?」
 埃まみれの蔵。惟吹の秘密基地。
 健史(けんし)は梯子をのぼり、顔を出した。
「健史、駄目じゃんここに入ってきちゃ」
「お前。久しぶりに会った知り合いに言う台詞か、それ?」
 軽い息切れと、額や首を流れる汗。
「ここはじいちゃんとぼくの秘密基地なんだからさ」
 いたずらっぽく笑い、何か箱をいじりながら言った。
「まあ、健史ならじいいちゃんも許すよ。入っていいよ」
 惟吹ははしごから床に体をもたれていた健史に手招きをした。健史はじいちゃんと言うワードに反応した。
 惟吹のじいちゃんが亡くなって、健史は惟吹の母親と親戚が話しているのを聞いた。惟吹は元々おじいちゃんっ子ではなかったのだけれど、いや、今でもそうではないのだが、じいちゃんが死んでから、やたらその名前を口にするようになった。
 二人の間には何があったのだろう?
「なあ、じいちゃんとの秘密基地って何?」
 健史は抱えた疑問を惟吹に聞いた。
「じいちゃんが死ぬ前、ぼくにここをくれるって約束したんだ。ほら、鍵だって一つしかない。もう一個はじいちゃんの仏壇にあるんだ」
「なくしたらどうするんだ?」
 寝転がっていた健史は起き上がって言った。
「そのときは、永遠になるかな」「永遠、ね」
 健史が咳き込んだ。さっきから少しずつ鼻をすすっていた。
「ほこり、駄目なんだ? ぼくの部屋行こっか」
 惟吹は健史を押すように外へ出し、カギを閉めた。
「あ、そうそう。ラムネ、途中で買ってきた。おばさんが冷蔵庫に入れたと思う」
「分かった。取ってくる。先上がってて」
 健史は二階へ上がり、惟吹は冷蔵庫のある部屋に行った。
 健史は部屋に入ると扇風機をつけ、さっそく寝転がった。風水がチリンチリンと音を鳴らす。外では蝉が鳴く。
 まぶたがだんだん重くなって、意識が遠のいていった。
 ぴたっと肌に何かが当たった。
「起きた?」
 惟吹は顔を覗き込み、アイスを額に乗せて健史を起こした。
「ああ、起きた」
 ぼうっとする頭を起こしながら、健史は答えた。
「相変わらず暑さに弱いんだね。これ、母さんが食べなさいって」
「どうも」
 健史は袋をやぶり、大口でアイスにかじりついた。
「おまえさ、さっき何いじってたの」
「宝物箱」
「宝物箱。何か懐かしい響きだな。じゃあ、あれも入ってんのか?」
「あれって?」
「砂時計。お前昔大事そうにしてただろ」
「入ってるよ。持ってこよっか?」
 惟吹は健史の答えを待たずに部屋を出た。惟吹が楽しそうに階段を駆け下りる音が聞こえた。
 一人部屋に残された健史はラムネを開け、一気に飲みほした。喉がかーとなる。空になったビンをのぞき、ビー玉を中で転がした。
 数分後、惟吹は戻ってきた。
「随分とあるな」
「まあね」
 少し間を置いて、惟吹は続けた。
「ぼくさ、宝物箱って、宝物だったものを入れておくものなんだと思うんだ。何てゆうか、きれいなものはそのままの形で残しておきたいんだ。宝物じゃなくなったものって、捨てられる運命じゃん? だから、ぼくじゃないぼくが壊したりしたらやだから。いつかぼくはぼくじゃなくなる。これを開けても、もうぼくではないから宝物に対して、何も思わないんだろうなあ」
「そう、かもな」
 健史はよく分からないまま頷いた。
「それ、貰ってもいい?」
 惟吹は空になったラムネの中に入っているビー玉を指差した。
「ビー玉ってさ、市販のやつは純粋じゃないだって。ラムネの中に入ってるのは、透き通っててきれいだ」
 そしていつかきれいだと思う気持ちさえも変わっていくんだ、と惟吹は呟いた。
 ビンから取り出したビー玉を太陽に当てた。

 夏の終わり、秘密基地が燃えた。
 宝物も失われた。だが、永遠にきれいなままで思い出になった。
「これで良かったんだ。ぼくがぼくじゃないものに壊されなくて」
 惟吹は後に健史にそう話した。

 ぼくはおれへと変わっていった。
 あの頃のぼくはもういない。
 大切と思うものも、姿・形を変えていった。
 蔵の焼け跡にはもう何も残っていない。
 久しぶりに訪れた惟吹は、あの焼け跡の周囲を歩いた。
 夏の太陽が何かを照らした。
 キラキラと輝くその正体は、ぼくがまだぼくだったころ宝物だったラムネのビー玉だった。ぼくがまだぼくだったころの思い出はきれいなまま、炎と共に形をなくした。
        
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プロフィール

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真崎 束音
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