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笑えない男

 鋭い。貫かれるような目つきだ。合わさずとも痛いほどに視線を感じる。必死で目を逸らしているが、男はまっすぐに僕を見ている。その姿勢は信頼できるかもしれないが、藁にも縋ったつもりがまさかこんな大物を掴んでしまうとは。
 何とか言葉を話していた。舌が上手く回っているかどうかは分からない。喋るほどに口内の水分が失われていく。水分は目の前にある。けど、僕はそれを手にすることもできていない。
「では」
 何度か聞く重低音。この声の感じ、テレビで聞いたことがある。渋い俳優の声に似ている。何だっけ? とよ、とよ、とよ……豊田、豊原、違うな、とよ、とよ、そもそも「とよ」だったっけ? 顔は思い出せるのだが、名前がどうにも出てこない。思い出したかった。逃げられないこの状況で、せめて心だけでも逃避させたかった。ヤクザから借金を取り立てられる時ってこんな心境なのだろうか。恐怖心が体中、髪の毛一本も見逃さずに支配する。しかし、今は借金の取り立てでもないし、僕も、僕の家族も借金をしたことがない。
「―さん」
 名前を呼ばれた、と思う。僕が顔を上げると、男が真正面にいた。いつの間に椅子から移動したのだろうか。たぶんここに来て初めて男をちゃんと視界に入れた。声も俳優に似ているかと思えば、顔も体も、そして身なりさえもドラマや映画に出るような俳優然としていた。
 世の中は不平等だ。改めて僕は思わされた。平々凡々な家庭に生まれ、平々凡々な身体を持ち、平々凡々な学力や能力で、平々凡々なコースを歩んできた。歩む途中だ。再度男を見る。悔しくなることもないほどの違いを叩きつけられた。少しだけ目が合う。忘れようとしていたのに恐怖が戻ってきた。
 が、意外と言葉は優しい。尋ねる口調ははっきりきっぱりとしているのに、僕を上から見たり、貶すような言葉は一切なかった。言葉にほだされるように男を盗み見てみたが、駄目だ、やはり怖い。
 今思えば、あの長い階段は処刑台への道のりだったのだ。五階建てのビルなのにエレベーターがなかった。そこの四階が、僕のいるここだ。ビルの老朽化具合を見ればなくても仕方ないかもしれない。しかし、見た目と違ってこの部屋は、モデルルームのような整然さと清潔さを持っていた。
 あっ。
 と思うまでもなく、男の手が胸のポケットに入った。
 え。
 まさか。
 いや、まさか。
 いやいやいやいやいやいやいやいや。
 ないないない、ないって!
 否定しつつも、手の動きから目が離れない。ああ、金縛りってこういう感じなんだ。動け、と言っても動かない。震えもしない。
 目の前は、スロー再生。
 決して僕がそうしたわけじゃない。できるはずもない。見ている景色が本当にスローモーションに動いているのだ。
 男の手の甲がだんだんと見える。僕はぎゅっと目を閉じた。生きることを諦めた。それなら何も見ずに、一瞬で最期を迎えたい。走馬灯は走らなかった。頭に浮かんだのは、「僕の部屋はどうなるんだろう?」だった。参考書の後ろに隠したエロ本や押しつけられたAVの数々。弁明したい。あれは決して僕の趣味じゃない。僕は大きさよりも形を重視するし、教師やナースなどというシチュエーションに興奮を覚えない。想像したこともない、と言えば嘘にはなるが。あとは、えーと、あれとこれはああして、などと考えていて、はっと気づく。何の痛みもない。なかったのか、それともこれからなのか、漫画ならば「しーん」と文字が入るような状態だった。
 恐る恐る目を空ける。どうか花畑でありますように。
 え。
 嘘だろ。
 そんな馬鹿な。
 ありえない。
 何が、どうして、こうなった。
 目の前で男が、目つきは鋭いままリップクリームを塗っていた。しかも外の色はピンクで、赤色の果物が描かれていた。男の上と下の唇が啄ばむように合わさる。そうして男はリップクリームを胸ポケットに仕舞った。
 同じ光景を教室や電車内で見たことがある。女性が口紅を塗った後に男がした動作をする。
 僕は凝視していたのだろう。
「すまない。私は唇がよく乾くんだ。一年中これを持ち歩いていないといけない。まったく困った話と思わないか」
 男は「これ」と言うと同時に胸ポケットの上を叩いた。僕はがくがくと頷いた。今までに味わったことのない気持ちを感じている。
「さて、話を戻そう」
 男は手を後ろで組んだ。少しの溜めの後「おめでとう」と発する。
「これより君は我が『藍花調査事務所』の一員だ。よろしく」
 わー何て可愛らしい名前。
 そうして、僕は晴れて就職した。
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 いつからだったんだろう。きっかけは何だったんだろう。あの時かもしれない。そうじゃないかもしれない。年に一、二回会えるか会えないかの間柄だ。気持ちが芽生えるのなんてごく稀だ。それに僕と彼女は六つも離れている。稀中の稀。だけど僕には気持ちが芽生えてしまった。
 僕は彼女に恋をしている。

 彼女を気安く「お姉ちゃん」と呼んで抱きついていた自分を思い出して恥ずかしくなる。今は何と呼べばいいか分からないし、どんな会話をしたらいいのか分からない。年に数回の邂逅は、ほとんど顔も合わせず言葉も交わせず、彼女から初めてお年玉を受け取り敬語でバイバイ。彼女の乗る車が去ったのを家の中で聞いていた。

 彼女を好きと気づいてから同級生、先輩でさえ、とても子供に思えた。いつを境目にかぐんと大人びた彼女は、僕が認める唯一の女性だった。
 今や僕は携帯を持っている。母さんが心配性のおかげで持つことができた。部活が遅くまであるというおかげでもある。
 もちろん彼女も持っているだろう。アドレスを知りたい。母さんに聞けば分かるかもしれないけど、それは自殺行為だ。好きな人を知られるのも嫌なのに、その相手が彼女だと知られるなんてもっと嫌だ。とんでもない。
とは思うものの、アドレスを知ったところでメールを送れるのだろうか。どんなことを話せばいいのだろうか。
 一度、母さんがいない間に携帯の電話帳を盗み見ようとして、やめた。気が引けたとはまたちょっと違った。そもそも僕は彼女の家の電話番号すら知らない。まあ彼女は実家を出ているので知っていても意味がない。
 彼女に会えない日々が淡々と続く。想いだけが募る一方だった。

 季節は夏になった。夏休みに入ったからとはいえ僕は受験生だ。浮かれている暇はない、と先生は言う。前に母さんも言っていた。それでも浮かれてしまう。彼女が帰省するというのだ。母さんの実家に僕らの家族は行く。それに合わせて彼女の家族も来るらしい。七月いっぱいで大好きな部活は終わるし、塾通いは増えるけど、今はそんなことよりも彼女と会えることのほうが胸を占めていた。
 何度か同級生の女子の着飾った格好を見たが、彼女のあっさりとした服装のほうが断然魅力的だった。案の定僕は彼女と挨拶を交わしただけで、僕は和室に、彼女は居間に行ってしまった。
 しばらく弟とテレビを観ていた。弟が「喉が渇いた」と言い、テレビに夢中になった弟の代わりに僕は居間に向かうことになった。
 ドアの向こうから母さん達の会話が聞こえた。
「そろそろ結婚でしょー」
「いやいやまだ早いよ。お姉ちゃんはいくつで結婚したの?」
 彼女が母を「お姉ちゃん」と呼ぶことに違和感を覚える。
「私は二十六」
「じゃあ、あたしまだまだじゃん」
「それに彼氏と別れたもんな、お前」
 彼女の兄が言った。
「兄ちゃんもいないじゃん」
「俺は、ほら、モテるから。一人に絞ったら女の子が可哀想でしょ」
 あとの会話はあまり耳に入らなかった。
 彼氏がいた。別れた。
 その二つが僕の頭の中に残った。頭の中でぐるぐると回り続ける。それでも廊下に立っているのは不自然なので止まった足を動かしたら彼女が居間から出てきた。
「あ、光矢。どうしたの?」
 ごく自然に彼女は尋ねてきた。
「新太が喉乾いたって言うんで」
「そっか。優しいね」
「いや、別に……」
 緊張のあまりか無愛想な答え方をしてしまった。僕は彼女の横を通り抜け、居間に入った。彼女はたぶんトイレにでも行ったのだろう。僕はおばあちゃんから紙パックのオレンジジュースとコップをもらうとまた居間を出た。
 ドアを閉めると新たな会話が飛び込んできた。
「でも、何で別れたんだろうね」
 この声は彼女の母親だ。
「あの子が彼氏できたなんて言ったの、あれが初めてだったのにねえ。しかもすごく嬉しそうに」
「俺ならあいつと付き合うなんて無理だけどな」
 彼女の兄の笑い声が続いた。その言葉に、その笑い声に、腹が立ったのもある。それ以上に悔しかった。僕はそこにも行けない。
 テレビに夢中になっている弟にジュースを注いであげて、僕はもう一度廊下に出た。また彼女と会った。こんなことは珍しかった。今度は少し装いが違った。七分袖のパーカーを羽織り、斜めに小さなカバンがかかっていた。
「今日はよく会うね」
 僕と同じことを思ったことが嬉しい。言葉を発するのを忘れるくらい、嬉しかった。
「デパート行くんだけど、光矢も行く? 母さんがめんどくさがってさあ。そのくせ注文するの。スタバのシナモンロールが食べたいとか」
「あ、じゃあ、財布取ってくる」
「いい、いい。いくつだと思ってんの。奢るって」
 一緒に出かけることになって嬉しかったけど、年齢差を彼女からはっきりと提示されて少し胸が痛んだ。意固地になっても彼女を困らせるだけだと思ったから、僕は「ありがとうございます」とお礼を言った。

 出かけることを双方の母に告げ、二人は家を出た。向かう先は一年前ほどにできた大きなショッピングモールだ。この町には似つかないほどの広大さで、たくさんの店舗が入っている。
 読書が好きな彼女は、どうやら母さんから僕も読書をすることを聞いていたらしく、道すがら本の話題を振ってきてくれた。趣味は少し違うものの、彼女の話を聞けるだけで僕は充分だった。彼女が好きだという作家を頭の中にメモをすることもできた。買うほどの余裕はないから、図書館で借りよう。
 話に相槌を打ちながら、僕はどうにかしてアドレスを手に入れたいと考えていた。直接アドレスを聞く手が一番単純で簡単だけど、それは恥ずかしくてしたくない。他の手を考える。僕は試しにメールが届いた振りをして携帯をポケットから取り出した。
「あ、携帯」
 彼女はすぐに反応してくれた。
「うん。メールが来て」
「もしかして彼女?」
 何となしに聞いているのは分かった。彼女の放った軽さは、僕の胸では鉛の重さへと変わった。僕は、平常心は保った。
「違いますよ。メルマガでした」
 彼女はそれ以上追及してこなかった。本当に何となしに聞いてみたのだった。
「てゆうかもう携帯持ってるんだ。いいなあ。あたしが中学の頃、携帯持ってる子なんてすごく珍しかったよ」
「僕の学校は持っていないほうが珍しいです」
 言葉が返ってこなかった。表情がおかしい。怒ってはいなそうだけど、笑顔ではない。何か変なことでも言ったのだろうか。
「敬語」
「え?」
 僕は「けいご」が何か分からなかった。変換ができなかった。
「何で敬語なの?」
 二度目で「けいご」を「敬語」と変換することができた。彼女の質問の意図も分かった。確かに僕は小学生の頃は敬語を使わなかった。敬語という観念がなかったとも言える。今は、特に中学に上がってからは敬語を多用するようになった。大人に対し、先生に対し、先輩に対し、彼女に対し。
「えっと……」
「ま、仕方ないのかな。実家の近所に男の子がいたんだけどね、その子もいつの間にか敬語で話すようになっちゃって。身長もぐーんと追い抜かれちゃった。男の子ってみんなそうなのかなあ」
 笑って話しているけど、その横顔は寂しさが滲んでいた。
「光矢はまだあたしより低いね」
「もうすぐ追い抜くよ。だって僕、男だし」
 なぜかは分からない。そんな言葉が出ていた。振り向いた彼女の瞳が丸くなって、そして微笑みになった。
「楽しみにしてる」

 ベッドに寝転んで携帯を開く。ディスプレイに新しい文字が並んでいる。何度瞬きを繰り返しても、それは夢じゃなかった。
〈おやすみ〉
 件名を「光矢です」と書いてメールを送信した。僕と彼女が繋がった瞬間だった。

リンク

「俺はお前が大嫌いだよ」
 そう言って彼は体の向きを僕に向けた。僕は彼をずっと見ていたから、いきなり振り向かれて少し驚いた。まさか向くとは思っていなかった。
 強い視線が重ね合わされる。
「僕だって君は嫌いだ」
 負けじと言った。強がりではなく本心だ。
「ふん。お前みたいな甘えん坊に好かれたくないね」
「甘えてる?」
「甘えてるじゃないか。いつまでそこにいるんだ?」
 彼は僕の下にある地面を指差した。
「そこってここ?」
 僕は両手を広げた。
「ここではないここ。そこもここだ。そんなところに何の意味がある?」
 嘲るような物言いをする。
「外は危険だ」
「何が?」
「棘だらけ。歩けば刺さる」
「何もないよ。出てみろよ」
「君には見えないかもね。強いから」
「お前はくそ弱いな」
 彼のストレートな一言に僕は黙った。肯定する気力も否定する気力も湧かない。あの空のように空っぽだ。
「棘も痛みも、全部お前の妄想じゃないか」
 僕は視線だけで反抗した。
「本当に傷つけられたことなんてないくせに」
「黙れよ」
 腹の底から声を出した。
「分かってるだろ? お前が勝手に思い込んで傷ついて、それを他人のせいにして、殻に閉じ籠ってる。はた迷惑な生き方だ」
「黙れ!」
「久々に聞いたなお前の大きな声。大体ここは俺の世界だぜ。俺が何喋ろうが、俺の勝手」
「僕の世界だ」
 彼に近づいて、地面へと倒した。彼は抵抗しない。僕はゆっくりと首に手をかける。恐ろしく冷たい。
「俺を否定するか?」
 首に彼の手がかけられた。手も、声を上げそうになるぐらい温度がなかった。
「早く殺せばいい。ほら、力を入れろ」
 彼は僕を誘導する。でも、手首から先に力が入らない。
「死んじゃうよ。いいの?」
 声が震えていることくらい自分でも分かっていた。
「やってみろよ」
 彼は笑っている。死を怖がっていない。殺されるとも思っていない。僕の心をすべて分かっていた。手から伝わるのは彼の体温だけ。
「君なんて、大嫌いだ」
 それでも離れられない。僕達は繋がっている。

パラレルワールド・クラッシュエンド

 僕は僕によく似た彼女を知っていた。多分彼女は僕と違う次元に生きている。けれど他人とは思えない繋がりが僕と彼女の間にあった。
 性別は違う。それ以外のすべてが彼女と共通している。生まれた場所、育った環境、歩んだ経歴、両親、兄弟、友達、同じものを彼女は持っていた。加えて好むものも同じだった。音楽も映画も本も服装も、好きになる人も同じような性格の人だった。同じ考えを持って行動し、同じ目で世界を見ていた。喜び方も悲しみ方も苦しみ方も怒り方も、傷つき方も傷つける方も同じだった。
 時々彼女がこっちを見ているような気がしたが、それは気のせいだった。
 僕は笑う。ふと彼女の映像がよぎった。彼女も僕と同じように笑っていた。ごく自然な笑顔に見えたが、僕には違って見えた。作られた笑顔を彼女は振りまいていた。作られた明るさに作られた笑顔、作られた悲しみ方を彼女はしていた。まるで台本に書かれたことを演じているようだ。そこに本物はない。僕も同じだった。
 僕と同じ人間と話している。そこまで同じなのだからもう彼女は僕自身だった。
 部屋に入った途端、彼女の顔から色が消えた。同じく僕の顔から色が消える。鏡を映った自分を見て、無理矢理笑顔を作った。虚しくなってやめた。
 僕はベッドに寝転び、目をきつく閉じた。頭の中に想像ができあがる。偽り続けた自分を解放する。これまで内に溜めていた怒り悲しみ憎しみをすべてぶつける。僕はナイフを振り上げる。怯える顔が見えた。そこで目を見開いた。彼女も同じく目を見開いた。またやってしまったと後悔する。しかし拭えない。どこか心の中で望んでいるからだろう。彼女もたま同じだ。
 夜は寝ることが恐怖だった。明日が恐怖だった。明日また同じように笑顔を作り、悲しみ方を作り、怒り方を作る。すべて作る。行動も表情もすべて作る。なぜだろうか。それは自分を社会に適合するためだ。そうしていればもうはみ出さずに済む。そうすればもう一人にならなくて済む。
 そんなはずだった。

 当たり前を手に入れる。そんな思いがあって僕も彼女もこの土地に来た。始めはよかった。すべてが輝いていた。それがふとしたできごとから徐々に崩れ始めた。今ではこの有様だった。昔よりひどくなっていた。
 人に疑念を持つようになった。向けられる優しさも信じることができなくなっていた。すべての言動に裏があるかもしれないと考えるようになっていた。それを自覚すればもう僕は自分という存在を隠すしかなかった。
 別の誰かを演じるようになった。高校時代の知り合いが聞いたら驚くほど僕は明るい人間になった。それがこの土地では当たり前になった。そんな自分でしかこの土地では認められなくなっていた。 感情が希薄になっていく。悲しみも苦しみも痛みも僕にはどんなものか分からなくなった。確かめるように僕は手首を切っていた。それが日常的になり僕の手首には無数の痕が残っている。彼女にもその痕が痛々しくあり、僕がその痕を見つめれば彼女も同じく見つめた。目を細めて歯を食いしばる。やめたくてもやめられない。僕と彼女は激しく憤っていた。
 どんな痛みも部屋に持ち帰った。誰にも見せなかった。

 現実のような夢だった。こんなにも長く彼女を見ていたのは初めてだった。
 彼女はいつものように仲間と話をしていた。何を言われたのか分からないが、彼女の表情はひどく冷たくなっていた。作られた表情じゃなかった。本物だった。
 仲間に何かを言っている。感情的なのに冷静に言葉を紡いでいた。仲間の顔が驚き変わる。彼女はそれを見て低く笑った。
 ポケットからナイフを取り出す。僕は願うようにその光景を見ていた。僕の一番嫌いな人間にナイフを向けたからだ。何度も殺したい、死んでくれと願った彼だ。どうせ夢なのだから殺してしまえと僕は心の中で彼女に言った。
 彼女は無表情で彼の腹を刺した。何度も何度も差した。その場にいた仲間は動けずに叫んでいた。
 何十回も刺した後、彼女は見下ろしながら彼の傷口を踏みつけた。かろうじて生きている彼は苦しそうに呻いた。虫のように呻く彼を彼女は罵声を浴びせながら踏みつけた。心から笑っていた。僕も笑っていた。
 彼の血にまみれた手が彼女の足を掴む。目尻からは涙がこぼれていた。

 携帯電話が鳴り僕は現実のような夢から覚めた。仲間からだった。僕は彼女の声に違和感を覚えた。呂律が上手く回っていない。濁った声だったからだ。
 耳に入る言葉に僕は頭を真っ白にさせた。

 僕はナイフを手に取った。
 彼女はナイフを手に持っていた。
 逆手に持った。一直線に振り下ろした。

 望んだのはこんな結末じゃなかった。どうしてこんなことになったんだろうか。僕はただ、彼女はただ当たり前がほしかった。
 ただそれだけだった。

自殺志願者と殺人予定者

 彼女はいつも笑っている。
 見た限り友達は男女問わず多いし、口にされる中では家庭にもんだいはないようだ。それなのに彼女は時々、血の匂いをまとって俺の元を訪れる。
「ハローせんせえ」
 彼女が部屋に入ってきた途端、明るい笑顔とともに錆びた鉄の匂いを感じ取った。
 俺は思わず顔をしかめた。彼女は人の変化に機敏に反応する。表情が意味することを素早く読み取った。
「先生には隠しごとできないや」
「どうせろくな治療してないんだろ。札かけといて」
「はーい」
 彼女はドアの向こうに消え、数秒後に戻ってきた。
 スカートを整えながらベッドの上に座った。俺はタイヤを転がして彼女の前に移動した。
 青いシャツの白いボタンがゆっくりと外されていく。その度に白い肌が露わになった。陽に晒されていない透き通る肌色。その上に赤い複数の線。ところどころ赤黒い塊ができている。
 俺はその傷痕をじっと見つめた。心理学的に解明できる行動も俺にとっては「理解不能」「謎」「迷宮入り」の単語に尽きてしまう。何度見ても痛々しさか伝わってこない。それなのに当の彼女は平然とした表情をしていた。
「じっと見つめちゃって……先生のエッチ」
 彼女は意地の悪い表情を作って俺をちゃかした。
「馬鹿言え。高校生に欲情なんてしない」
 俺は全力で否定して、彼女専用となってしまった救急セットを開いた。簡単なものしか入ってないが彼女の治療にはこれで事足りる。
 無言で行われる治療。赤黒く固まった血を拭いて、消毒液を染み込ませた綿を傷口に当てる。乾いていた肌に潤いがもたらされ赤みを増した。使用済みの綿をゴミ箱に落として、再度彼女と向かい合った。肌に触れる。見た目と手触りでより深い箇所にガーゼを固定する。
 治療を終え、俺は出した道具を直し、机の上に置いた。椅子を回して彼女を見ると、服を乱したままベッドに仰向けになっていった。不快な感情は覚えても性欲は向かわない。俺は椅子から立ち上がった。
「こら。みっともないものいつまでも見せるんじゃない」
 ベッドに手を置いて彼女を見下ろした。体重をかけるとベッドが鈍い音を立てる。
「じゃあ止めてよ」
 命令ではないものの、彼女の口調には有無を言わせない強さが含まれていた。俺は呆れながらも、かいがいしくボタンを止めてあげる。
「ありがと」
 彼女は短く礼を言った。
「うん」
 俺は受け取る。
 彼女は横に体を傾けた。腰から下は座った状態で、上半身だけベッドに預けた。俺はそれを容認する。
 しばらくして静寂は切り裂かれた。
「やっぱここにいた!」
 ノックもせずに男子生徒が入ってきた。
「さぼってんじゃねえよ。俺部活があっから放課後に持ち越したくないんだけど」
 咎めてはいるが、男子生徒の顔に嫌悪感は見当たらない。友好な関係を築いているようだ。
「ごめんごめん、委員長様」
 彼女は起き上がって服の皺を直した。
 ドアを開けて待っている男子生徒の元へ歩いていく。俺には一言も声をかけないで去っていった。
 壁の向こう側から楽しそうな笑い声が聞こえる。複数の声の中に彼女のものもちゃんとある。自分なりに彼女を見てきて、これが作られた明るさとは思えない。だけど、その身にそぐわない傷が彼女には刻まれている。
 まったくもって難解だ。

「彼女を見かけませんでしたか?」
 六コマの授業が終わり、俺の就業時間も後三十分ほどに差しかかった頃だった。相談室のドアを開けた養護教諭が尋ねてきた。
 さっきまで彼女はこの部屋で「すぐり通信」という名の保健だよりを書いていた。数十分机に向かい合っていると思ったら、「できた!」と声を上げてまた静かになった。
 養護教諭に言われて俺は初めて彼女の不在に気づいた。ベッドで眠っているものと思っていた。普段から彼女は俺の了承を得ずに横になる。迷惑がかかっているわけではないので放置しているが、本来なら許容されていい行為ではない。
「おかしいですね。さっきまで保健だより書いていましたよ。トイレにでも行ったんじゃないですか」
「困ったわ。少し用事ができて私もう帰らなきゃいけないの。だけど、彼女のカバンがあるし……」
 養護教諭は溜息をついた。
「僕が彼女を待っていますよ。保健室が開いていなかったらこっちに来るでしょうし」
「本当? 助かります。じゃあよろしくお願いしますね」
 俺は社交辞令の笑顔で養護教諭を見送った。
 一人になると顔から温度を消した。椅子に座って書類の記入を再開した。彼女を探しに行く気はなかった。元より保健室は五時で閉まる。それまでには戻ってくるだろう。彼女は馬鹿じゃない。
 それに一介のカウンセラーとしての俺が堂々と校舎を歩き回るのは気が引けた。用事がない限りあまりここから出たくない。はっきり言って俺の顔は生徒に覚えられていないのだ。入学式の時全校生徒の前で紹介されたが、普段顔を合わせる教員と違って俺は週二日しかこの学校に来ない。その上相談室という極めて疎遠的な場所に生息している。覚えられないのも必然だ。
 作業が終わりコーヒーで一息ついていた時に彼女は静かに帰ってきた。
「お帰り」
 俺は言った。
「やっぱり先生は探しに来なかったね。出ていくのにも気づかなかったし」
「探しに行く必要なんてないよ」
「何で?」
 彼女は頬を膨らませる。
「君がここに戻ってくるって分かってたからだよ」
「もし戻ってこなかったら?」
 彼女は言い返した。
「いや、戻ってくる。現に戻ってきた」
「何の根拠があって?」
「根拠はないね。でも君は賢い。俺はそう思ってるよ。違う?」
 彼女は一瞬目を伏せた。次の瞬間笑顔になった。
「その通り! さすが先生見る目があるね」
 意気揚々とベッドに腰かけた。
「でもさ」
 一呼吸間を空ける。
「もし私が死んでたらどーする?」
 今日の夕飯を聞くような何気ない台詞として彼女の口から吐き出された。その平凡さが俺は恐ろしかった。
「死のうとしたのか?」
 俺は思わず口からこぼしていた。
 彼女の胸の傷に気づいてから数ヶ月、対話によって彼女の心を知った。彼女の過去や現在にこれといって大きな傷はない。でも傷を持っている。
 通常自傷行為をする人間は大小様々な悩みを抱えているものだ。だけど彼女に悩みはない。なぜ彼女は自傷行為に導かれたのか分からない。彼女から聞いた理由は俺の中で合理化されずにいる。

「同じなんだよ。お腹が空いたらご飯を食べる。喉が乾いたら水を飲む。尿意を催したらトイレに行く。眠くなったら寝る。それとおんなじなんだ」

 彼女はそう説明した。

「体が叫ぶから、私はそれに答えてあげるの」

 笑いながら言う。

「私ってあんまり傷つかないから。それって人間的に不公平でしょ。だから私は自分で傷つける」

 そんな理屈はおかしいだろう。決して認めてはならない理屈だ。理由を持って自分を傷つけている人間のほうがよっぽど正常だ。
 臨床心理士としてカウンセリングを始めて、俺との対話で元気を取り戻した患者を何人も見送ってきた。挫けそうになる時もあったが、それでもこうしてこの仕事を続けているのは患者達の笑顔があったからだ。
 彼女を目の前にすると、その気持ちも揺らぐ。俺は本当に患者を救えてきたのだろうか。人は本当に人を救えるのだろうか。
「いいや。でも私は自分で死ぬよ」
 俺は彼女の言葉に頭を抱えた。俺がいくら諭そうと彼女は意見を変えようとしない。生まれ育った環境のように変わることはないと彼女は言う。
 救う必要がないほど彼女は普通で、見過ごせないほど彼女は異常だ。
 せめて自傷だけでもやめさせたい。しかし、直す方法が見つからない。彼女の自傷を否定することは彼女を否定することに繋がる。
「自殺してどうなる?」
「何で自分の死を決めちゃいけないの?」
 俺は彼女の質問にありきたりな答えを思い浮かべた。しかし、彼女にとってはまるで意味のない言葉だと思い身に留めた。
「親からもらった体だから、とか。死んだら悲しむ人がいる、とか。そう言いたいんでしょ? 人が唯一自分で決めることができないのは生まれること。だから私は死を自分で支配したい。死ぬ時も死ぬ場所も自分で決める」
 決意を語るようなしっかりとした口調で彼女は言う。「どう足掻いても自殺する気?」
「うん。今日かもしれない。明日かもしれない。十年後かもしれない。私は自殺じゃないと死んでも死に切れないよ」
 俺は一体何を思ったのだろう。
「じゃあ俺が君を殺してやるよ」
 そう言った。
「君がそこまで言うんなら俺が殺してやる。自殺する前に君を殺す。どこまでもついていって君を殺すよ。自殺なんて許してやらない」
 救えないのならいっそのこと壊してしまおう。
 俺は間違っている。カウンセラーとしても、大人としても、人間としても反した行動を取っている。
 殺人予告に彼女は眼を丸くした。虚を突かれた表情で声を発しない。
「あっはははは!」
 彼女は突然笑い出した。歴代のM-1王者でもここまでの笑いは取れないだろう。
 声をかけそびれた俺は呆然と彼女を見ていた。彼女はまだ笑っている。体をくの字に曲げてお腹を抱えて笑っている。時々苦しそうに声を途切れさせながら笑い続けている。
 ひーひーと喉で呼吸しながら、彼女は声を振り絞った。
「それってプロポーズ?」
 まだ笑いから解放されずに彼女は言った。
 尋ねられて俺は考えた。プロポーズが恋愛的なものとして考えるならば彼女にそのような感情は抱いていない。裸を見ても性的興奮は一切起こらなかった。過去の恋愛を例に挙げても彼女に当てはまるところはない。
「ありえない」
「じゃあ何。ストーカー宣言ですか?」
 彼女は間髪入れずに返してきた。
 ストーカーという言葉に俺は不快を示した。内容はこの際問わないとしてプロポーズは「正常」だが、ストーカーは「異常」だ。自分の行為が異常だと分かっていてもストーカー表現は頂けない。
「……プロポーズでいいや」
 考えるのが面倒くさくなった。
「さいっこおーだよ。最高のプロポーズだよ」
 彼女はまた笑い出した。
「あはっ。なーんか面白くなってきた! 私、負けないからね。他人の手によって殺されるなんて絶対やだ。でも、先生は好き。だからついてきてもいいよ。殺されてはやんないけど」
「リタイア、認めるよ」
「お、強気だね先生。相手として申し分ない。私もリタイア認めてあげよう」
 上から目線で彼女は言った。
 まるで俺は挑戦者。そして彼女は王者。それもそうだ。俺は彼女の世界に挑戦状を叩きつけたのだから。
 俺は鼻で小さく笑った。
「何がおかしいの?」
「俺と君」
 短く簡潔に答えたら、彼女は不服そうな顔した。
「ま、そっちから見たらね」
 黙ることなく言い返してきた。
 彼女はベッドから離れ、窓側へゆっくりと歩き出した。夕陽が差し込んで彼女を赤く染め上げる。彼女と俺に一足の距離ができた。
「先生、人生は短いよ。第一回戦を始めよう」
 そう言って彼女はポケットに手を入れた。ミニサイズのカッターナイフを取り出して無邪気に笑う。
「死にたくなっちゃった」
        
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プロフィール

HN:
真崎 束音
性別:
非公開

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