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2024年11月24日
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自殺志願者と殺人予定者
短編
2014年06月18日
彼女はいつも笑っている。
見た限り友達は男女問わず多いし、口にされる中では家庭にもんだいはないようだ。それなのに彼女は時々、血の匂いをまとって俺の元を訪れる。
「ハローせんせえ」
彼女が部屋に入ってきた途端、明るい笑顔とともに錆びた鉄の匂いを感じ取った。
俺は思わず顔をしかめた。彼女は人の変化に機敏に反応する。表情が意味することを素早く読み取った。
「先生には隠しごとできないや」
「どうせろくな治療してないんだろ。札かけといて」
「はーい」
彼女はドアの向こうに消え、数秒後に戻ってきた。
スカートを整えながらベッドの上に座った。俺はタイヤを転がして彼女の前に移動した。
青いシャツの白いボタンがゆっくりと外されていく。その度に白い肌が露わになった。陽に晒されていない透き通る肌色。その上に赤い複数の線。ところどころ赤黒い塊ができている。
俺はその傷痕をじっと見つめた。心理学的に解明できる行動も俺にとっては「理解不能」「謎」「迷宮入り」の単語に尽きてしまう。何度見ても痛々しさか伝わってこない。それなのに当の彼女は平然とした表情をしていた。
「じっと見つめちゃって……先生のエッチ」
彼女は意地の悪い表情を作って俺をちゃかした。
「馬鹿言え。高校生に欲情なんてしない」
俺は全力で否定して、彼女専用となってしまった救急セットを開いた。簡単なものしか入ってないが彼女の治療にはこれで事足りる。
無言で行われる治療。赤黒く固まった血を拭いて、消毒液を染み込ませた綿を傷口に当てる。乾いていた肌に潤いがもたらされ赤みを増した。使用済みの綿をゴミ箱に落として、再度彼女と向かい合った。肌に触れる。見た目と手触りでより深い箇所にガーゼを固定する。
治療を終え、俺は出した道具を直し、机の上に置いた。椅子を回して彼女を見ると、服を乱したままベッドに仰向けになっていった。不快な感情は覚えても性欲は向かわない。俺は椅子から立ち上がった。
「こら。みっともないものいつまでも見せるんじゃない」
ベッドに手を置いて彼女を見下ろした。体重をかけるとベッドが鈍い音を立てる。
「じゃあ止めてよ」
命令ではないものの、彼女の口調には有無を言わせない強さが含まれていた。俺は呆れながらも、かいがいしくボタンを止めてあげる。
「ありがと」
彼女は短く礼を言った。
「うん」
俺は受け取る。
彼女は横に体を傾けた。腰から下は座った状態で、上半身だけベッドに預けた。俺はそれを容認する。
しばらくして静寂は切り裂かれた。
「やっぱここにいた!」
ノックもせずに男子生徒が入ってきた。
「さぼってんじゃねえよ。俺部活があっから放課後に持ち越したくないんだけど」
咎めてはいるが、男子生徒の顔に嫌悪感は見当たらない。友好な関係を築いているようだ。
「ごめんごめん、委員長様」
彼女は起き上がって服の皺を直した。
ドアを開けて待っている男子生徒の元へ歩いていく。俺には一言も声をかけないで去っていった。
壁の向こう側から楽しそうな笑い声が聞こえる。複数の声の中に彼女のものもちゃんとある。自分なりに彼女を見てきて、これが作られた明るさとは思えない。だけど、その身にそぐわない傷が彼女には刻まれている。
まったくもって難解だ。
「彼女を見かけませんでしたか?」
六コマの授業が終わり、俺の就業時間も後三十分ほどに差しかかった頃だった。相談室のドアを開けた養護教諭が尋ねてきた。
さっきまで彼女はこの部屋で「すぐり通信」という名の保健だよりを書いていた。数十分机に向かい合っていると思ったら、「できた!」と声を上げてまた静かになった。
養護教諭に言われて俺は初めて彼女の不在に気づいた。ベッドで眠っているものと思っていた。普段から彼女は俺の了承を得ずに横になる。迷惑がかかっているわけではないので放置しているが、本来なら許容されていい行為ではない。
「おかしいですね。さっきまで保健だより書いていましたよ。トイレにでも行ったんじゃないですか」
「困ったわ。少し用事ができて私もう帰らなきゃいけないの。だけど、彼女のカバンがあるし……」
養護教諭は溜息をついた。
「僕が彼女を待っていますよ。保健室が開いていなかったらこっちに来るでしょうし」
「本当? 助かります。じゃあよろしくお願いしますね」
俺は社交辞令の笑顔で養護教諭を見送った。
一人になると顔から温度を消した。椅子に座って書類の記入を再開した。彼女を探しに行く気はなかった。元より保健室は五時で閉まる。それまでには戻ってくるだろう。彼女は馬鹿じゃない。
それに一介のカウンセラーとしての俺が堂々と校舎を歩き回るのは気が引けた。用事がない限りあまりここから出たくない。はっきり言って俺の顔は生徒に覚えられていないのだ。入学式の時全校生徒の前で紹介されたが、普段顔を合わせる教員と違って俺は週二日しかこの学校に来ない。その上相談室という極めて疎遠的な場所に生息している。覚えられないのも必然だ。
作業が終わりコーヒーで一息ついていた時に彼女は静かに帰ってきた。
「お帰り」
俺は言った。
「やっぱり先生は探しに来なかったね。出ていくのにも気づかなかったし」
「探しに行く必要なんてないよ」
「何で?」
彼女は頬を膨らませる。
「君がここに戻ってくるって分かってたからだよ」
「もし戻ってこなかったら?」
彼女は言い返した。
「いや、戻ってくる。現に戻ってきた」
「何の根拠があって?」
「根拠はないね。でも君は賢い。俺はそう思ってるよ。違う?」
彼女は一瞬目を伏せた。次の瞬間笑顔になった。
「その通り! さすが先生見る目があるね」
意気揚々とベッドに腰かけた。
「でもさ」
一呼吸間を空ける。
「もし私が死んでたらどーする?」
今日の夕飯を聞くような何気ない台詞として彼女の口から吐き出された。その平凡さが俺は恐ろしかった。
「死のうとしたのか?」
俺は思わず口からこぼしていた。
彼女の胸の傷に気づいてから数ヶ月、対話によって彼女の心を知った。彼女の過去や現在にこれといって大きな傷はない。でも傷を持っている。
通常自傷行為をする人間は大小様々な悩みを抱えているものだ。だけど彼女に悩みはない。なぜ彼女は自傷行為に導かれたのか分からない。彼女から聞いた理由は俺の中で合理化されずにいる。
「同じなんだよ。お腹が空いたらご飯を食べる。喉が乾いたら水を飲む。尿意を催したらトイレに行く。眠くなったら寝る。それとおんなじなんだ」
彼女はそう説明した。
「体が叫ぶから、私はそれに答えてあげるの」
笑いながら言う。
「私ってあんまり傷つかないから。それって人間的に不公平でしょ。だから私は自分で傷つける」
そんな理屈はおかしいだろう。決して認めてはならない理屈だ。理由を持って自分を傷つけている人間のほうがよっぽど正常だ。
臨床心理士としてカウンセリングを始めて、俺との対話で元気を取り戻した患者を何人も見送ってきた。挫けそうになる時もあったが、それでもこうしてこの仕事を続けているのは患者達の笑顔があったからだ。
彼女を目の前にすると、その気持ちも揺らぐ。俺は本当に患者を救えてきたのだろうか。人は本当に人を救えるのだろうか。
「いいや。でも私は自分で死ぬよ」
俺は彼女の言葉に頭を抱えた。俺がいくら諭そうと彼女は意見を変えようとしない。生まれ育った環境のように変わることはないと彼女は言う。
救う必要がないほど彼女は普通で、見過ごせないほど彼女は異常だ。
せめて自傷だけでもやめさせたい。しかし、直す方法が見つからない。彼女の自傷を否定することは彼女を否定することに繋がる。
「自殺してどうなる?」
「何で自分の死を決めちゃいけないの?」
俺は彼女の質問にありきたりな答えを思い浮かべた。しかし、彼女にとってはまるで意味のない言葉だと思い身に留めた。
「親からもらった体だから、とか。死んだら悲しむ人がいる、とか。そう言いたいんでしょ? 人が唯一自分で決めることができないのは生まれること。だから私は死を自分で支配したい。死ぬ時も死ぬ場所も自分で決める」
決意を語るようなしっかりとした口調で彼女は言う。「どう足掻いても自殺する気?」
「うん。今日かもしれない。明日かもしれない。十年後かもしれない。私は自殺じゃないと死んでも死に切れないよ」
俺は一体何を思ったのだろう。
「じゃあ俺が君を殺してやるよ」
そう言った。
「君がそこまで言うんなら俺が殺してやる。自殺する前に君を殺す。どこまでもついていって君を殺すよ。自殺なんて許してやらない」
救えないのならいっそのこと壊してしまおう。
俺は間違っている。カウンセラーとしても、大人としても、人間としても反した行動を取っている。
殺人予告に彼女は眼を丸くした。虚を突かれた表情で声を発しない。
「あっはははは!」
彼女は突然笑い出した。歴代のM-1王者でもここまでの笑いは取れないだろう。
声をかけそびれた俺は呆然と彼女を見ていた。彼女はまだ笑っている。体をくの字に曲げてお腹を抱えて笑っている。時々苦しそうに声を途切れさせながら笑い続けている。
ひーひーと喉で呼吸しながら、彼女は声を振り絞った。
「それってプロポーズ?」
まだ笑いから解放されずに彼女は言った。
尋ねられて俺は考えた。プロポーズが恋愛的なものとして考えるならば彼女にそのような感情は抱いていない。裸を見ても性的興奮は一切起こらなかった。過去の恋愛を例に挙げても彼女に当てはまるところはない。
「ありえない」
「じゃあ何。ストーカー宣言ですか?」
彼女は間髪入れずに返してきた。
ストーカーという言葉に俺は不快を示した。内容はこの際問わないとしてプロポーズは「正常」だが、ストーカーは「異常」だ。自分の行為が異常だと分かっていてもストーカー表現は頂けない。
「……プロポーズでいいや」
考えるのが面倒くさくなった。
「さいっこおーだよ。最高のプロポーズだよ」
彼女はまた笑い出した。
「あはっ。なーんか面白くなってきた! 私、負けないからね。他人の手によって殺されるなんて絶対やだ。でも、先生は好き。だからついてきてもいいよ。殺されてはやんないけど」
「リタイア、認めるよ」
「お、強気だね先生。相手として申し分ない。私もリタイア認めてあげよう」
上から目線で彼女は言った。
まるで俺は挑戦者。そして彼女は王者。それもそうだ。俺は彼女の世界に挑戦状を叩きつけたのだから。
俺は鼻で小さく笑った。
「何がおかしいの?」
「俺と君」
短く簡潔に答えたら、彼女は不服そうな顔した。
「ま、そっちから見たらね」
黙ることなく言い返してきた。
彼女はベッドから離れ、窓側へゆっくりと歩き出した。夕陽が差し込んで彼女を赤く染め上げる。彼女と俺に一足の距離ができた。
「先生、人生は短いよ。第一回戦を始めよう」
そう言って彼女はポケットに手を入れた。ミニサイズのカッターナイフを取り出して無邪気に笑う。
「死にたくなっちゃった」
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