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笑えない男

 鋭い。貫かれるような目つきだ。合わさずとも痛いほどに視線を感じる。必死で目を逸らしているが、男はまっすぐに僕を見ている。その姿勢は信頼できるかもしれないが、藁にも縋ったつもりがまさかこんな大物を掴んでしまうとは。
 何とか言葉を話していた。舌が上手く回っているかどうかは分からない。喋るほどに口内の水分が失われていく。水分は目の前にある。けど、僕はそれを手にすることもできていない。
「では」
 何度か聞く重低音。この声の感じ、テレビで聞いたことがある。渋い俳優の声に似ている。何だっけ? とよ、とよ、とよ……豊田、豊原、違うな、とよ、とよ、そもそも「とよ」だったっけ? 顔は思い出せるのだが、名前がどうにも出てこない。思い出したかった。逃げられないこの状況で、せめて心だけでも逃避させたかった。ヤクザから借金を取り立てられる時ってこんな心境なのだろうか。恐怖心が体中、髪の毛一本も見逃さずに支配する。しかし、今は借金の取り立てでもないし、僕も、僕の家族も借金をしたことがない。
「―さん」
 名前を呼ばれた、と思う。僕が顔を上げると、男が真正面にいた。いつの間に椅子から移動したのだろうか。たぶんここに来て初めて男をちゃんと視界に入れた。声も俳優に似ているかと思えば、顔も体も、そして身なりさえもドラマや映画に出るような俳優然としていた。
 世の中は不平等だ。改めて僕は思わされた。平々凡々な家庭に生まれ、平々凡々な身体を持ち、平々凡々な学力や能力で、平々凡々なコースを歩んできた。歩む途中だ。再度男を見る。悔しくなることもないほどの違いを叩きつけられた。少しだけ目が合う。忘れようとしていたのに恐怖が戻ってきた。
 が、意外と言葉は優しい。尋ねる口調ははっきりきっぱりとしているのに、僕を上から見たり、貶すような言葉は一切なかった。言葉にほだされるように男を盗み見てみたが、駄目だ、やはり怖い。
 今思えば、あの長い階段は処刑台への道のりだったのだ。五階建てのビルなのにエレベーターがなかった。そこの四階が、僕のいるここだ。ビルの老朽化具合を見ればなくても仕方ないかもしれない。しかし、見た目と違ってこの部屋は、モデルルームのような整然さと清潔さを持っていた。
 あっ。
 と思うまでもなく、男の手が胸のポケットに入った。
 え。
 まさか。
 いや、まさか。
 いやいやいやいやいやいやいやいや。
 ないないない、ないって!
 否定しつつも、手の動きから目が離れない。ああ、金縛りってこういう感じなんだ。動け、と言っても動かない。震えもしない。
 目の前は、スロー再生。
 決して僕がそうしたわけじゃない。できるはずもない。見ている景色が本当にスローモーションに動いているのだ。
 男の手の甲がだんだんと見える。僕はぎゅっと目を閉じた。生きることを諦めた。それなら何も見ずに、一瞬で最期を迎えたい。走馬灯は走らなかった。頭に浮かんだのは、「僕の部屋はどうなるんだろう?」だった。参考書の後ろに隠したエロ本や押しつけられたAVの数々。弁明したい。あれは決して僕の趣味じゃない。僕は大きさよりも形を重視するし、教師やナースなどというシチュエーションに興奮を覚えない。想像したこともない、と言えば嘘にはなるが。あとは、えーと、あれとこれはああして、などと考えていて、はっと気づく。何の痛みもない。なかったのか、それともこれからなのか、漫画ならば「しーん」と文字が入るような状態だった。
 恐る恐る目を空ける。どうか花畑でありますように。
 え。
 嘘だろ。
 そんな馬鹿な。
 ありえない。
 何が、どうして、こうなった。
 目の前で男が、目つきは鋭いままリップクリームを塗っていた。しかも外の色はピンクで、赤色の果物が描かれていた。男の上と下の唇が啄ばむように合わさる。そうして男はリップクリームを胸ポケットに仕舞った。
 同じ光景を教室や電車内で見たことがある。女性が口紅を塗った後に男がした動作をする。
 僕は凝視していたのだろう。
「すまない。私は唇がよく乾くんだ。一年中これを持ち歩いていないといけない。まったく困った話と思わないか」
 男は「これ」と言うと同時に胸ポケットの上を叩いた。僕はがくがくと頷いた。今までに味わったことのない気持ちを感じている。
「さて、話を戻そう」
 男は手を後ろで組んだ。少しの溜めの後「おめでとう」と発する。
「これより君は我が『藍花調査事務所』の一員だ。よろしく」
 わー何て可愛らしい名前。
 そうして、僕は晴れて就職した。
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真崎 束音
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