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1.13日の金曜日

 まるで月に惑わされたようにテンは歩いていた。数年も通ることのなかった道を毎日歩いているかのような足取りで。
 やがて一つの店に辿り着いた。
「いらっしゃいませ」
 客はいなかった。突然の来客にも店員は慌てることなく迎えていた。
 テンはドアを閉めて、顔をしかめた。内装はあまり変わらないが、数年前よりもカウンターに立つ人物が若返っていた。
「あれ? マスター若返った?」
「そんなわけないじゃないですか。親父はいい歳になりました。ようやく俺もここに一人で立たしてもらうようになって」
「ああ、ヨウ君。大きくなったねえ。ていうよりも立派になったって言ったほうがいいかな」
「ありがとうございます」
 ヨウは苦笑しながらも、素直にお礼を言った。
「随分と久しぶりですね。もうここには来ないと思ってました。今日はどうしてまた?」
「んー特に理由はないよ」
「何ですかそれ」
「しいて言えば」
 テンは意味ありげに間を空けた。
「……十三日の金曜日だからかな」
「あはは。相変わらず不思議な人ですね。変わってないようで安心しました」
「それ褒め言葉?」
「もちろん。久しぶりにきてくださって嬉しいです。ゆっくりしていってくださいね。何にしますか?」
口を開こうとした瞬間、ドアが音を立てて開いた。
「こんばんは……ってお客さんがいる。珍しい」
 ジャージ姿の小柄な男が入ってきた。目は合ったが、その男の目はすぐにヨウに向かった。
「お前また一人か? たまには誰か連れてこいよ」
「それじゃあ隠れ家の意味ないじゃん。部活上がりだから、お腹空いたよ。とりあえずバーガーとレッドアイをお願いします」
 テンと間隔を空けて座り、大きな荷物を床に置いた。見たところ学生だ。素早く全身を見るが、多分男だろう。しかし、中性的な顔をしている。男にしては可愛らしい。そして小柄だ。
「レオ。一人じゃないんだから騒がしくするなよ。テンさんすみません」
「あ、ごめんなさい」
 レオと呼ばれた彼はテンの方を向いて、小さく会釈した。
「あの子未成年じゃないよな?」
 テンはヨウにこっそり聞いた。レオは首を捻ったりして、こちらの動きには興味がないようだ。
「一応二十歳ですよ。あいつはここの最年少常連です」
「へえ」
 乗り出した体を元に戻した。出されたお酒を喉に通して、煙草に火をつけた。灰皿を手元に寄せて、灰を落とした。すっと煙を吐く。
 調理を終えたヨウがレオの前にバーガーを出した。
「いただきまーす」
 ちゃんと手を合わせて、豪快に口に運んだ。数回咀嚼して、レッドアイを一気に飲んだ。可愛い顔に似合わず随分と男らしい仕草だ。
「あ、レオ。お前テンさんのファンって言ってただろ? 気にならないのか」
 グラスを磨いていたヨウはレオのほうに寄り、テンに聞こえないように尋ねた。
「テンって誰?」
「は!」
 テン本人に気づかれないように聞いたのに、レオの予想外な発言によりついヨウは大きな声を出してしまった。
「お前好きって言ってただろ?」
「だからテンって誰?」
 声はテンの元にも届いた。
「俺のこと?」
「あ、すみません。こいつがファンだって言うから」
「だからテンって誰?」
 少し苛々したようにレオが言った。
「ほらリンクスの」
「……あ、ああね。好きだよ。めっちゃ声いいし、音もかっこいいし。でもファンではない」
「レオ!」
 ヨウは声を荒げた。レオは疑問を顔に浮かべている。そのやり取りが面白くて、テンはたまらず笑い声を漏らした。
「テンさん、すみません。ほんとこいつ失礼で。この人がリンクスのボーカルテンさんだよ」
「この人があの、いい声で歌う、あの?」
 手でテンを示した。
「どうも」
 テンは小さく微笑んで見せた。
「へえ」
「へえってそれ以外にないのかよ。ああもう言うんじゃなかった」
 ヨウは頭を抱えた。
「あはは。君面白いね。こんな新鮮な反応初めて。俺も自惚れてたかな」
「自惚れていいと思いますよ。あなたの声すごく好きです」
「レオ君だっけ?」
「違います。こいつは―」
「ヨウさん」
 音量も調子もすごく落ち着いていたが、その一言はヨウの言葉を止めた。
「どしたの?」
「俺、ほんとはレオンって言うんですよ。ヨウさんには初めて会った時に間違えられてそれが続いてるんです。レオでもレオンでも好きに呼んでください」
「おい。どういうつもりなんだ?」
「テンさん俺には秘密があるんですよ。ヨウさんは知ってます。暴いてみませんか?」
「えー何だろ。本当は未成年とか?」
 テンはとりあえず適当に口にした。
「そうだったらヨウさんは飲ませてくれませんよ。存外固い人ですから」
「ほんとは三十路」
「そうだったら面白いですね」
 これも違うことを意味している。
「俺に会ったことがある?」
「まさか。今日初めて顔を知りました」
「分からんのう」
 テンはすっかり故郷の口調に戻っていた。東京に来てからは従うように標準語になっていた。それに抵抗はなかったし、すんなり受け入れていた。
「当てに来ないで飲みましょうよ。俺、誰かと飲むの久しぶりです」
 そう言ってレオはグラスを近づけた。
「乾杯」
 その瞳が赤く揺れているように見えた。

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